最古の仏教経典『法句経』をひもとき、釈尊の智慧を参考に、幸せについて考えましょう。

第1章(前半)

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第1章 ひと組みずつ

第1章 ひと組みずつ」には20の法句(ほっく)があります。
二つの法句が一組となり、あるテーマについて述べられます。

ここでは、前半として1から14までの法句についてお話しします。

なお、章の題名は、中村元訳「真理のことば」(中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』1978年、岩波文庫)をそのまま使用します。

「心」こそがすべて

一、意(おもい)は諸法(すべて)にさき立ち

諸法(すべて)は意(おもい)に成る

意(おもい)こそは諸法(すべて)を統(す)ぶ

けがれたる意(おもい)にて  且つかたり 且つ行わば

ひくものの跡を追う かの車輪のごとく くるしみ彼にしたがわん
(友松圓諦訳)

(現代語訳)ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。——車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。(中村元訳)

 

二、意(おもい)は諸法(すべて)にさき立ち

諸法(すべて)は意(おもい)に成る

意(おもい)こそは諸法(すべて)を統(す)ぶ

きよらなる意(おもい)にて 且つかたり 且つ行わば

形に影のそうごとく たのしみ彼にしたがわん(友松圓諦訳)

(現代語訳)ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。——影がそのからだから離れないように。(中村元訳)

アインシュタインタゴールの対話をご存知でしょうか。

この対話は、1930年、アインシュタインのベルリン・カプートの別荘で行われたものです。

タゴール:この世界は人間の世界です。世界についての科学理論も所詮は科学者の見方にすぎません。

アインシュタイン:しかし、真理は人間とは無関係に存在するものではないでしょうか?
たとえば、私が見ていなくても、月は確かにあるのです。

タ:それはその通りです。しかし、月は、あなたの意識になくても、他の人間の意識にはあるのです。
人間の意識の中にしか月が存在しないことは同じです。

ア:私は人間を越えた客観性が存在すると信じます。ピタゴラスの定理は、人間の存在とは関係なく存在する真実です。

タ:しかし、科学は月も無数の原子がえがく現象であることを証明したではありませんか。
あの天体に光と闇の神秘を見るのか、それとも、無数の原子を見るのか。
もし、人間の意識が、月だと感じなくなれば、それは月ではなくなるのです。

NHKアインシュタイン・ロマン(第3巻)

タゴールのことばは、釈尊(お釈迦様)の考え方そのものです。

私の外にものが存在するのは確かです。しかし、私がいなくなれば私にとっての世界はなくなります。

私が存在し、認識してはじめて世界が存在するのです。この世界は私の「心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される」のです。

私の心が私の世界を創り出し、変化させるのです。

私が考えたように世界は変わり、私も変わるのです。

なろうと思っているような人間に私はなるのです。

なりたい人物像を持つべきです。

そのために、人生に目標を持つことが大切です。

一生かけて行うこと、10年くらいで達成すること、3年くらいで、1年で、一か月で、一週間で、一日でという具合に、目標を持って実践することが必要です。

一度しかない「私」の人生です。悔いなく生きたいものです。

2005.06.09配信

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「うらみ」を捨てよう

三、「彼、われをののしり

彼、われをうちたり

彼、われをうちまかし

彼、われをうばえり」

かくのごとく こころ

執する人々に

うらみはついに

()むことなし

(友松圓諦訳)

(現代語訳)「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した」という思いをいだく人には、怨みはついに息(や)むことがない。

(中村元訳)

四、「彼、われをののしり

彼、われをうちたり

彼、われをうちまかし

彼、われをうばえり」

かくのごとく こころ

執せざる人々にこそ

ついにうらみの

止息(やすらい)を見ん

(友松圓諦訳)

(現代語訳)「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した」という思いをいだかない人には、ついに怨みが息(や)む。

(中村元訳)

あなたは誰かを怨んでいますか。

何故、怨んでいるのですか。

6月10日にショッキングな事件がありました。

山口県内の高校3年生が授業中に同じ高校の別なクラスに

爆弾を投げ込んだという事件です。

動機はいじめに対する「怨み」だったと伝えられています。

「彼、われをののしり 彼、われをうちたり
彼、われをうちまかし 彼、われをうばえり」
という思いをいだいた末の凶行だったのでしょうか。

どのようないじめだったのか、報道からは正確に実態がつかめません。
また、いじめが本人にどの程度の精神的苦痛を与えていたかは、
本人にしかわからないことでしよう。

「怨み」という気持ちは特殊なものではないと思います。

釈尊が王子の地位を捨てて、出家した動機を
後世の学僧は「四苦八苦」としてまとめています。
合計で八つの苦悩を解決せんがために釈尊は出家したと分析したのです。

その中に「怨憎会苦」があります。

怨んでも怨んでも、憎んでも憎んでも、

怨みきれない、憎みきれない人と会う苦しみです。

私自身、殺してやりたいと思うほど、怨み憎んでいる他人はおりません。
しかし、できれば会いたくない人はいます。
ところが、会わなくてはならない状況が必ずやってきます。それが人生です。
私の場合、幸いに毎日会わなくてはならないような人ではありません。
それが、職場の上司や同僚、先生や同級生だったりするとたいへんです。
最悪の場合は、それが連れ合いや家族だったりすることでしょう。

あなたはいかがですか。
即刻、「怨み」を捨てましょう。捨てないと、ろくなことはありません。
少なくとも幸せにはなれません。
「おれ(私)は○○が憎い、憎い、憎い、怨んでやる、怨んでやる、怨んでやる」
と、三回唱えてみて下さい。

そんなに憎くもない人が憎くなり、怨んで当然だという気持ちになりませんか。

こだわるとそれが実体化してしまうのです。
さらりとかわしましょう。

件の高校生がこの詩句を知っておれば、
あれほどの凶行にはいたらなかったのではないか。

インターネットで爆発物の作り方を調べずに、
「怨み」を捨てることの大切さを調べて欲しかった、と思います。

包丁はおいしい料理を作る道具にもなるし、人殺しの道具にもなります。

インターネットも同じです。良い使い方をしたいものです。

執着せず、「怨み」を捨てましょう。

これが、幸せになる秘訣です。

2005.06.22配信

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「うらみ」は捨てられる

五、まこと、怨みごころは

いかなるすべをもつとも

怨みを(いだ)くその日まで

ひとの世にはやみがたし

うらみなさによりてのみ

うらみはついに消ゆるべし

こは(かわ)らざる真理(まこと)なり (友松圓諦訳)

(現代語訳)実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの()むことがない。怨みをすててこそ()む。これは永遠の真理である。 (中村元訳)

六、「われらはここ

死の領域(さかい)にあり」

道を(こと)にする人々は

このことわりを知らず

このことわりを知る

人々にこそ

かくていさかいは止まん (友松圓諦訳)

(現代語訳)「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。──このことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。 (中村元訳)

「怨み」はいつの時代にも、いかなる場所にも存在してきました。

今、この瞬間にも存在し、人間の心をむしばみ、暴力を引き起こし、
それが新たな「怨み」を生み、暴力を生み、という悪循環を繰り返しています。

イスラエルとパレスチナの抗争、アフリカ諸国で断続的に起こる内戦、
イラクにおける治安の悪化など、小さな暴力から戦争まで、
「怨み」が「怨み」を引き起こしています。

「怨み」は自己増殖し続け、破滅に到る人間社会のガン細胞です。

「怨み」を捨てなければ幸せにはなれません。

これは確かなことです。

しかし、「怨み」を捨てるのは至難のわざです。

もしも、理由もなく自分の身内が殺されたならば、
その犯人に対する「怨み」を捨てられるでしょうか。

江戸時代、武士には敵(かたき)討ちが公認されていました。
領主から称賛を受けたり、時には強制されることもあったようです。

封建制の道徳意識を高めるとともに、
裁判制度の不備を補うのに効果があったのでしょう。

今でも毎年師走になると、赤穂浪士の討ち入りのテレビ番組があったり、
四十七士のお墓がある東京の泉岳寺を多くの人が訪れるようです。

私が住職をしているお寺は新発田藩主溝口家の菩提寺です。

四十七士の一人、堀部安兵衛は実の父親が新発田藩の藩士で、
母方の先祖代々のお墓が当山にあります。

また、安兵衛ゆかりのお寺では、毎年義士祭が行われています。

ここでは、殿様より堀部安兵衛が有名です。

敵討ちは、人間の「怨み」を巧妙に使った卑劣な制度だと思います。

敵討ちに一生を棒に振った人々も少なくなかったようです。

その上、首尾よく敵を討ったとしても、
今度は逆に敵の身内から怨まれることもあったでしょう。

結局、「怨み」の悪循環が続いていくだけです。

それでも、やはり「怨み」を捨てることはできないのでしょうか。

第二次世界大戦終結後の昭和26年(1951)、
サンフランシスコ平和条約(対日平和条約)が締結され、
日本の連合国に対する賠償責任などが決められました。

しかし、スリランカ(当時はセイロン)の代表ジャヤワルデネは、
『法句経』の第5番目の詩句を引用して、賠償請求権を放棄しました。

後に、ジャヤワルデネは首相を務めた人物です。

釈尊の教えが実際に国際社会の場で実践された希有な例です。

以来、スリランカとは良好な関係が続いていると思います。

不可能ではないが、やはり私には無理な話だ。

「怨み」は捨てられないと思っておられるかもしれません。

いや捨てられると釈尊は言っています。

それが、第6番目の詩句です。

みんないつかは死ぬんだ。

いつかはわからないが、生まれたからには絶対に死ななければならない。

死亡率は100パーセントなのだ。

「怨み」も死とともに消滅する。

怨んでいようと、怨まれていようと死ねば終わりだ。

そう考えれば、どんな「怨み」も許せるではないか、というのです。

誤解しないで下さいよ。

自殺すれば自分の「怨み」も消えるし、
誰かを殺せばその人の「怨み」も消えるのだな、
というのではありません。

これは新たな「怨み」を生じさせるだけです。

そうではなくて、みんな最後には死に到るのだ、
と考えれば許せるだろう、ということです。

日本人は、亡くなった人を「仏」と呼びます。

仏教の教えから言えば、これは間違った用法です。

「仏」というのは、修行し、悟りに到った生きている人間をそう呼ぶのです。

死んだ人を「ほとけ」と呼ぶのは日本人だけです。

「あの人は生前、結構悪いことをしたけれど、亡くなればみんな仏様だね」
という具合に日本人は亡くなった人のことを決して悪くは言いません。

第6番目の詩句の教えがここにあります。

この意味で、早く死に到るであろう年長者のことは
大切にしなければならないと思います。

私も大切にしてもらえる年齢に踏み込みつつあります。

嬉しいような、寂しいような、複雑な心境です。

憂いを感じながら終わりにいたします。

長くなりましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。

みなともに幸せでありますように!

2005.07.01配信

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快楽の果てに

七、世のことすべて(うるわ)しと()

諸根(こころ)ただおもむくにまかせ

口にするもの節度(はかり)なく

こころはよわく はげみ少なし

誘惑者(まよわし)

はかかる人を

魔手()にはとらえん

まことに、かのつよ風の

力よわき樹木()を吹き倒すごと (友松圓諦訳)

(現代語訳)この世のものを浄らかだと思いなして暮し、(眼などの)感官を抑制せず、食事の節度を知らず、怠けて勤めない者は、悪魔にうちひしがれる。──弱い樹木が風に倒されるように。 (中村元訳)

八、世のことすべて(うるわ)しとは見ず

諸根(こころ)はよくととのえられ

口にするもの、定量(ほど)をこえず

(しん)に、はげみはつよし

誘惑者(まよわし)もかかる人を

魔手()にとらうすべなし

まこと、つよ風に

微動(さゆる)がぬ岩山のごと (友松圓諦訳)

(現代語訳)この世のものを不浄であると思いなして暮し、(眼などの)感官をよく抑制し、食事の節度を知り、信念あり、勤めはげむ者は、悪魔にうちひしがれない。──岩山が風にゆるがないように。 (中村元訳)

この世のものをすべて「美しくない」ものと見ろ、だなんて…。

やっぱり仏教は禁欲的だな、とてもついていけないや、などと思わないで下さい。

そうではないのです。

釈尊は齢80歳になられ、自分の寿命があとわずかであることを感じ、
最後の旅に出られます。

途中、ヴェーサーリーの町で休まれ、町を眺めて言われます。

「アーナンダよ。

ヴェーサーリーは美しい。

ウデーナ霊樹の地は美しい。

ゴータマカ霊樹の地は美しい。

七つのマンゴー霊樹の地は美しい。

バフプッタ霊樹の地は美しい。

サーランダダ霊樹の地は美しい。

チャーパーラ霊樹の地は美しい」 (奈良康明訳)

釈尊もこの世が美しくないとは言いません。

それどころか、楽しく美しく愛おしいものだと言われます。

それでは、『法句経』の第7、8番目の二つの詩句は何を言いたいのでしょう。

釈尊は釈迦族の太子として生まれました。

名前は、ゴータマ・シッダールタと言います。

ゴータマが姓、シッダールタが名です。

小さな国とはいえ、当時の社会の最上層のメンバーとしての生活を送りました。

蓮の花が咲き誇る美しい庭園に囲まれた、
雨季・乾季・冬季のそれぞれを快適に過ごすための三つの宮殿に住み、
最高級の衣服に身を包んで、
正室と二人の側室、多くの召使いや侍女にかしずかれ、
毎日ご馳走と音楽歌舞等の娯楽を楽しみ、
といった生活を過ごしました。

これ以上は望めない贅沢な生活をしておられたということです。

しかし、シッダールタ太子はこれに満足できなかったのです。

たとえば、宮殿での歓楽の後、醜態をさらして眠りこける美女の姿が、
仏典に出てきます。

肉体的・物質的快楽には限りがあり、
それはやがて、はかなさ・むなしさにつながっていきます。

究極の幸せは、精神的なものだということに思いいたり、
それを求めて出家修行の生活に飛び込んだのです。

肉体的・物質的快楽を求めること自体は悪いことではありません。

しかし、「いつか」はその限界に気づかなくてはなりません。

そして、その「いつか」は、
自分の生き方が他人の人生を左右するような状況になったときだと思います。

たとえば、結婚したとき、子どもを育てるときです。

パチンコしたさに、
乳児を炎天下に駐車した自動車の中に長時間放置して、殺してしまった。

夜中、子どもたちだけを家に残して遊びに行き、
火事で子どもたちが死んでしまった。

子どもの面倒を見るよりも、遊ぶ金を稼ぐために働きに出る、等々。

このように、欲望に振り回され、自己中心的になり、
自己破滅的になってしまう悲惨なできごとが少なくありません。

肉体的・物質的な楽しみをすべて否定するわけではありません。

ほどほどにやるということです。

やりすぎないということです。

精神的な楽しみもあるということに気づきたいものです。

極端はよくありません。

釈尊は禁欲と快楽の両極端を離れて「中道」を悟ったのです。

極端の中には幸せはありません。

今の自分にとっての程良い楽しみは何かを探したいものです。

最後までお読みいただきありがとうございました。

2005.07.08配信

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ふさわしさとは?

9、心なお、けがれを去らず

ただ袈裟衣(きいろき)をまとわんとす

されど、心ととのわず

業(わざ)、真理(まこと)にそわずば

袈裟(きいろき)を身にまとわんに

彼はげにそのあたえあらず (友松圓諦訳)

(現代語訳)けがれた汚物を除いていないのに、黄褐色の法衣をまとおうと欲する人は、自制が無く真実も無いのであるから、黄褐色の法衣にふさわしくない。 (中村元訳)

 

10、心すでにけがれを去り

心よくいましめに住し

自らおのれをととのえ

業(わざ)、真理(まこと)にそわば

袈裟(きいろき)をまとわんに

げにそのあたえあり (友松圓諦訳)

(現代語訳)けがれた汚物を除いていて、戒律をまもることに専念している人は、自制と真実とをそなえているから、黄褐色の法衣をまとうのにふさわしい。 (中村元訳)

「坊主憎けりゃ袈裟(けさ)まで憎い」という言い方を聞いたことがあるでしょう。

『大辞林』には、
「その人を憎むあまりに、その人に関係のある事物すべてを憎むことのたとえ」
と出ています。

「袈裟(けさ)」は仏教僧侶であることの印です。

ですから、この詩句は出家修行者のために説かれたものです。

けれども、「袈裟」を「職業」や「役割」などに読みかえれば、
現代の私たちに対する根原的な批判となります。

真のプロフェッショナルが少なくなりました。

名詞の「プロフェッショナル」professinalは、
professした者、つまり皆の前で職業上の誓いを立てた者のことです。

元々は、聖職者、医者、法律家などのことですが、
ここではもっと広くとらえて、
その職業や役割に熟練し、その道の名人のこととしましょう。

「超」名人は昔も今もごくわずかしかいません。

今ならさしずめ、野球ならイチロー、サッカーなら中田というところでしょうし、
今も昔も、各分野に二、三人というところでしょう。

問題なのは、使命感・自覚が今の私たちに欠けていることです。

警察官が取調中の女性容疑者を強姦した。

男性教員が女生徒に手を出した。

電車やバスの運転手が勤務の前に飲酒をしていた。

親が子どもの世話を放棄したり、虐待したりして、死にいたらしめた。

等々、枚挙にいとまがありません。

職業・役割に対する使命感・自覚があれば、とてもできないことでしょう。

自分の職業・役割に誇りを持たず、
その場しのぎに過ごしている人々が多いような気がします。

仕事をするのは、生活に必要なお金を稼ぐため、
仕事は苦行で休みの日に遊びに行くのが生き甲斐さ、
というふうな方々が多いのではないですか。

元々仕事は、自分の持てる能力を社会のために提供し、
それにふさわしい報酬をもらうものです。

報酬をもらうために仕事があるのではありません。

社会の役に立って、自分も立たせてもらうのです。

人の役に立つ、これ以上の生き甲斐もありません。

自分の職業・役割に誇りを持ち、真摯に取り組みましょう。

このことだけは誰にも負けないという自負を持てれば幸せです。

自分はこの職業・役割に「ふさわしい」人間になっているか、
時々自覚し、顧みることが重要だと思います。

2005.07.15配信

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本物を見分ける

11、精要(まこと)なきものに

精要(まこと)ありと思い

精要(まこと)あるものを

仮(あだ)と見る人は

いつわりの

思いにさまよい

ついに真実(まこと)に

達(いた)りがたし (友松圓諦訳)

(現代語訳)まことではないものを、まことであると見なし、まことであるものを、まことではないと見なす人々は、あやまった思いにとらわれて、ついに真実(まこと)に達しない。(中村元訳)

 

12、精要(まこと)あるものを

精要(まこと)ありと知り

精要(まこと)なきものを

仮(あだ)と見る人は

正真(すぐ)なる思いに

たどりすすみ

ついに真実(まこと)に

達(いた)るべし (友松圓諦訳)

(現代語訳)まことであるものを、まことであると知り、まことでないものを、まことではないと見なす人は、正しき思いにしたがって、ついに真実(まこと)に達する。(中村元訳)

本物を見抜くことや真実を見きわめることは今も昔も難儀なことです。

中学生の二男坊が、五歳くらいのときだったと思います。

近所にある標高400メートルほどの山に家族で登ったことがありました。

無事下山してくると、彼は
「今日はくまさんに遭わなかったね」
と残念そうに言うのです。

「ええ!熊になんか遭ったらたいへんだよ」
と両親で口を揃えて言ったことがありました。

彼は、熊というと
「ぬいぐるみ」やくまのプーさん、ヨギベアのような「マンガのくま」
を考えていたらしいのです。

ぬいぐるみやマンガは、人間の考えたもので本物ではありません。

二男坊は、本物の熊に遭って、襲われでもすれば本物の何たるかを思い知ったでしょう。

幸いにもそのようにはなりませんでしたが。

本物あるいは真実は人間の思考・意識を超越したものです。

人間のちっぽけな思考でとらえられるようなものではないはずです。

作りものは人間の意識が作り出したものですから、
人間の思惑通りのもので、人間には好ましいものです。

しかし、真実は人間のもくろみ通りにはいきません。

オウム真理教があれほど勉強のできた若者の心を捕らえたのは、
本物ではなかったからです。

手前勝手に意識が作り出したものだったからだと思います。

したがって、もともと人間の意識が作り出した「情報」の真偽を判断するのは
さらに困難です。

NHKのニュースの編集方針は、公平・中立だそうですが、
そんなことがはたして可能なのでしょうか。

高木徹『戦争広告代理店』2005年、講談社文庫(当初の刊行は、2002年、講談社)には、
ユーゴ内戦において、いかに偽りの情報が作られ、セルビアを悪者にしてアメリカを巻き込み、空爆にいたったかが、
詳細に報告されています。

これは平和時においても特殊な事例ではありません。

福田ますみ『でっちあげ』2007年、新潮社には、
善良な一小学校教諭が、父兄のでたらめなクレームによって「史上最悪」のいじめ教師にでっちあげられたかが、
詳細に記されています。

しかし、故意や悪意がなく、善意の場合でも本質的に情報は真実ではありません。

では、実際に体験できず、二次的な情報しか得られない場合、
真実にいたる方法はあるのでしょうか。

真実そのものに到達することは無理でも、
それが真実ではないことは判断できるのではないでしょうか。

それは「相対化」という方法です。

たとえば、NHKのニュースが中立・公平だという神話を捨て、
同一の事件について他の様々のメディアがどのように伝えているかを
見聞してみることです。

そのうちに、それぞれのメディアの報道の立場がわかってきて、
特定の考えや視点・立脚点が絶対ではないことがわかると思います。

ところで、偏見のない素直なまっさらな目で見ろ、と言われます。

しかし、それは予備的な知識もない、何も知らないということではありません。

いろいろなことを知った上で、情報を相対化して先入観から自由になる、
ということだと思います。

仏教の説く「無我」は、永遠不変の本体は存在しないという意味です。

絶対の存在はないことを示しています。

真実すらも状況的であり、相対的なのです。

融通無碍の柔軟な心が大切です。

頑固おやじや頑固ばばあにならないようお互い気をつけましょう。

特に、おやじが危ないかも…。

2005.07.22配信(2009.07.14加筆修正)

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心に雨が降ろうとも

13、そあらに

葺(ふ)かれたる

屋舎(いえ)に

雨ふれば

漏れやぶるべし

かくのごとく

心ととのえざれば

貪欲(とんよく)これを破らん(友松圓諦訳)

(現代語訳)屋根を粗雑に葺(ふ)いてある家には雨が漏れ入るように、心を修養してないならば、情欲が心に侵入する。(中村元訳)

 

14、こころこめて

葺(ふ)かれたる

屋舎(いえ)に

雨はふるとも

漏れやぶることなし

かくのごとく

よくととのえし心は

貪欲(とんよく)も破るすべなし(友松圓諦訳)

(現代語訳)屋根をよく葺(ふ)いてある家には雨の漏れ入ることが無いように、心をよく修養してあるならば、情欲の侵入することが無い。(中村元訳)

映画『スター・ウォーズ』が完結しました。(スターウォーズ エピソード III シスの復讐

この銀河宇宙を舞台にした壮大な叙事詩は、
監督・脚本・製作総指揮のジョージ・ルーカスが語っているように、
アナキン・スカイウォーカーの贖罪の物語です。

以下、ネタバレになりますので、ご注意ください。













































宇宙を宇宙たらしめているエネルギー「フォース」に
調和をもたらす者として選ばれたはずのアナキンが、
なぜ善のジェダイ騎士団を裏切って悪の権化ダース・ベイダーとなり、
皇帝ダース・シディアスとともに恐怖によって宇宙を支配することになったのか。

いくつかの要因やターニングポイントが映画には出てきます。

ジェダイになるには年齢が高すぎた。(1歳未満が最適)

ジェダイになるために母と微妙な年齢(9歳)で別れねばならなかった。

本来の師匠クワイ=ガン・ジンが、シス卿のダース・モールに殺された。

自らの救出が遅れ母が惨殺された。

パドメとの禁断の恋に落ち、秘密裏に結婚する。
(ジェダイは恋愛したり結婚したりできない)

ハドメが出産時に命を落とすという予知夢を見る。
 

こういったことを背景に、心揺れ動くアナキンを
元老院議長パルパティーン(ダース・シディアス)が、フォースの暗黒面に誘惑する。

ジェダイのリーダーであるヨーダが、死は生の一部だ、
とアナキンを諭すが、彼は納得できない。

これに対して、ダース・シディアスは、シス卿は命さえも左右できる、
とことば巧みにアナキンをそそのかす。

パドメの命を助けたい一心で彼はシス卿ダース・ベイダーとなり、
ジェダイとその弟子である幼いパダワンたちを皆殺しにしてしまう。

ついにアナキンは、火山の惑星で師匠のオビ=ワン・ケノービと対決する。

両足片手を切り落とされ、溶岩の熱で全身を焼かれるが、
すんでの所でダース・シディアスに救出される。

しかしこれ以後、
生命維持を補助する甲冑に身を包んで生きながらえねばならなくなってしまう。

一方、パドメは無事に双子を出産するが、
アナキンがシス卿に成り果てた悲しみのあまり、
生きる意欲を失い死んでしまう。

人生いつも晴天ではありません。

雨が降ることもあり、嵐になることもあります。

そのときに、心を込めて丁寧に葺かれた屋根を持つ家のように
よくととのえられた心ならば、誘惑も付け入る隙はありません。

ところが、粗雑に葺かれた屋根の家のように、ととのえられていない心は、
簡単に誘惑に負けてしまいます。

アナキンは、心をととのえる機会をことごとくつぶして成長してしまいます。

それが、彼の運命・因縁といえばそれまでですが、
ヨーダが度々口にしているように「忍耐」が足りなかったのです。

真のジェダイになるためには、長く厳しい修行が必要です。

しかし、フォースの暗黒面は素早くたやすく習得することができます。

その上、暗黒面に落ちるきっかけは怒りと憎しみ、恐怖なので、
それらを感じやすい人間は暗黒面に誘惑されやすくなります。

また、正義感が強いほど悪を憎む気持ちが強くなり、
暗黒面に落ちる可能性もまた大きくなります。

「罪を憎んで人を憎まず」というのは、
憎しみや怒りを抑えることの大切さを教えているのかもしれません。

物語は、アナキンの息子ルークがアナキンの良心を呼び覚まし、
アナキンが皇帝ダース・シディアスを葬ることで結末を迎えます。

大宇宙を舞台にした冒険活劇のように見える『スター・ウォーズ』ですが、
見事な人間ドラマに仕上がっています。

善と悪、愛と憎しみ、運命と努力など、
私は人間の業(ごう)の深さと素晴らしさを見ることができました。

2005.07.22配信

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